'."\n" ?> チョン・ヨンスンの「ぽけっとジャーナル」:〓雑記帳〓〈47〉:鄭容順
チョン・ヨンスンの「ぽけっとジャーナル」

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2009年10月 8日

〓雑記帳〓〈47〉:鄭容順

―朴尚任さんの半世紀(4)―

朴尚任さんは木津町梅谷という山奥から木津町でも町の中心に引っ越しをした。引越しをした所は現在、木津川市になっている。

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北大路だった。筆者の家は朴尚任さんが引っ越しして来られた家から数10メートル離れているだけだったが当時の筆者の住所は南大路になる。
筆者の家から北大路に向けて民家が3軒あって永泉寺というお寺がある。
筆者の家の並びは永泉寺までが南大路、そこから向こうは北大路だった。向かい側の家の並びに朴尚任さんが住んでいた。その家から北大路になった。その手前の民家は南大路になった。
現在は木津町そして東西南北などの垣外で住居表示をしている。

話は少し横道にそれるが筆者の実家から163号線の国道にでる。国道を出てそのまま真っ直ぐ南に歩いて2・3分もすると映画俳優の椎名吉平の母親が育った実家がある。椎名吉平は母親そっくりの顔をしている。
話は横にそれた。

朴尚任さん一家は日本の敗戦後から1956年までここで暮らした。
筆者は6歳で上狛学校前から引っ越しをしているので筆者の家族と近所で住んだのは7年ほどだったと思う。
筆者には朴尚任さん一家とそんなに記憶はないが引っ越しをされる少し前のことだった。
桜井に住んでいた祖父が木津の筆者の家にやってきた。
祖父がきたものの家には妹と筆者しかいなかった。
父親は京都の会社に勤め母親は廃品回収業の商いに出ていた。
筆者は普段から祖父は怖いと思っていたので親がいない時に祖父が来て驚いた。
祖父が来るといつも母親は台所で何かを作ってもてなしをしていた。
子ども心にそんなことを覚えていたのだろう。
小学6年になったばかりの筆者はどうしていいか分からず近所に住む朴尚任さんを呼びに行った。
朴尚任さんはすぐに七輪に火をおこした。
そして筆者に豆腐屋(1軒おいた隣にあった)で「油揚げを買ってきて」と言った。月末に払っていたので子どもの筆者でもお金を持っていかなくても買うことができた。
油揚げを買ってくると朴尚任さんは七輪で油揚げを焼いて醤油をつけて食べるようにして祖父に出してくれた。祖父と朴尚任さんが話しているとしばらくして母親が戻ってきた。
今も思い出す。
玄関の土間で七輪に火をおこして油揚げを焼いていた朴尚任さん。祖父は土間の横にあった縁側に座って食べていた。

しかし朴尚任さんの方が筆者のことをよく覚えていた。
母親が廃品回収業の商いに出ると筆者が低学年のころだったと思う。留守番で置いていかれるのが嫌で「連れて欲しい」と道端に転んで泣いていた。それを見て朴尚任さんが「家に入ろう」といったらおとなしく家に入ったという。
また子どもが学校から貰ってくる紙切れや町内で配られる紙切れの度に朴尚任さんは筆者の家に来て父親に読んでもらったという。
「どんな小さな紙切れでも持って行って読んでもらった」と話してくれた。
朴尚任さんの中では親切ないい人で残っている。
外の人には親切にしていたのだろう。家の父親は亭主関白で威厳のある父親でとっつきにくい父親だった。
朴尚任さんは6人目の子どもを産んだ。長女から次女とずっと女の子、6人目も女の子だった。
朴尚任さんの夫、ハンゴンさんは「また女か」と言って出て行ってしまった。
毎夜、賭博で明け暮れていた。子どもが生まれているのに出世届けも出さないで放置したままだった。それでこの女の子の名付け親は筆者の父親がしたという。
出世届けを書く前に名前をつけてもらった。
女の子はこれで最後にしたいという相応しい名前、山に例えて付けてくれた。
この時も筆者の父親に世話になったと話してくれた。
朴尚任さんにこの話を聞いて2日ほどして思い出した。
そういえば父親は筆者にずっと以前に名前をつけたと言っていた。
朴尚任さんの生活は苦しかった。生活費を入れないハンゴンさんに苦労した。
夏休み前から桜井の親戚や知人を頼って桜井市に引っ越しをすることを進めていた。夫のハンゴンさんには内緒にしていた。
夫のハンゴンさんをここに捨てて自分と子どもだけで桜井市に引っ越しをする話を進めていた。
この話を知っていたのは筆者の母親だけだったという。木津町には散財して
10数軒の在日コリアンが住んでいた。筆者の町内にはもう2軒住んでいた。
が、引っ越しすることは母親だけ言っていた。
筆者の母親はハンゴンさんを捨てていくことと引っ越しすることを反対していた。
夏休みに入ってからの引っ越しだった。
娘の担任教師にお別れの挨拶をするために学校に行った。
学校から帰ってくると小型のトラックが家の前に停まっていた。トラックを持って来た親戚の人が荷物を乗せていた。なんとそこにはここで捨てていくはずの夫のハンゴンさんがいるのではないか。驚いたが黙ってここに放っておいて桜井市に行くことにしていた。
ここにハンゴンさんを置いて行くということをその前の晩に朴尚任さんはハンゴンさんに話していた。それで夫婦が了解したようだった。
そして荷物を積み終わってハンゴンさんは娘の1人に言う。
「○○子、トラックの後ろに乗って荷物をちゃんと見て」と言ったという。
そしたら一緒に車を持ってきていた親戚の人が言った。
「一緒に行かないのか」と聞いた。
ハンゴンさんは「ここで用事がまだ残っている。用事をすませてからいく」とう。そしたら親戚の人は「何を言う。引っ越しするのに家の大黒柱が行かないでどうする」と怒ったという。そんなことになってここで捨てて行くつもりだったハンゴンさんも一緒に車に乗っていくことになった」と、朴尚任さんが話す。
引っ越しをしていく日の朝のことを筆者は覚えている。
家を出て外の水道のところで磨き砂だったのか。砂だったのか。縄をたわしにしはて釜を磨いておられた朴尚任さん。目に涙をいっぱいにためながら釜をピカピカに磨いておられた朴尚任さんの姿は今も目に焼きついている。
桜井市戒重に引っ越しをした。在日コリアンが多く住んでいる集落だった。当時、桜井市の在日コリアン、朝鮮総連組織で活動する在日コリアンが多くいた。
朴尚任さんは話す。
「その頃は総連が活発に動いていました。私も総連の行事によく参加しました。
帰国運動の話に何度も帰ろうと思いました。生活は桧縄の縄綯いをしていました。生活は苦しかったです。北朝鮮は何もかもしてくれて気楽に暮らしていけると何度も聞いて本当に帰ろうと何どもも思いました。そしたらハンゴンさんは言う。日本で朝鮮人が全部帰国して家(うち)だけ残ったら北朝鮮に帰える」と言ってけっして帰ろうとしなかった。また故郷は韓国にあるということで帰国をする気にはならなかったという。こんな話を聞いているとハンゴンさんはずっと賭博人生で家族に苦労をかけたものの何かを見る目を持っておられたのだろう。
木津で7人目にやっと男子誕生された。
筆者は「父親の名付けも効いたのかな」と言ったら朴尚任さんは「私に運もあったのか男の子ができました」と話していた。
韓国もそうだが在日コリアンも男子誕生、跡継ぎを産むことが1世の中ではまだまだ生活の中にあった。男子誕生しない嫁はまわりや家族に中傷・非難がありこれだけでも精神的苦労が大きかった。1世の生きた道程は深くて暗い。そんな言葉が浮かんでくる。
乳飲み子を抱えて桜井市に引っ越しをしていかれた。ハンゴンさんは63歳で亡くなった。しかし朴尚任さんは生活の糧のためにずっと働いてきた。まだまだ苦労が続く。来週は天理市立北中学校夜間学級に行くまでの朴尚任さんの生きた人生を紹介していきます。
【写真説明】2008年2月、夜間中学研究会で1世のオモニ(お母さん)たちの作品が展示された。この写真は橿原市立畝傍中学校夜間学級で学ぶオモニたちの書道作品が展示されていました。筆者が会場で撮影。

2009年10月 8日 00:50

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