'."\n" ?> チョン・ヨンスンの「ぽけっとジャーナル」:「あの日、あの時」≪137≫:鄭容順
チョン・ヨンスンの「ぽけっとジャーナル」

<< ヒナが歩いている:鄭容順 |メイン| 秋です。蝶が心を和ませる:鄭容順 >>

2009年10月 5日

「あの日、あの時」≪137≫:鄭容順

■日本の朝鮮・韓国人(日韓条約締結まで)

「在日朝鮮人の国籍と権利」

GHQは、1946年に入り朝鮮半島に帰る人が減少するなかで、在日朝鮮人や朝鮮半島の人々からの反発を受けて、在日朝鮮人の国籍問題については名言をさけながらも日本に留まる以上は在日朝鮮人も日本の法令を遵守する義務があると繰り返した。

一方、日本政府は講和条約締結までは朝鮮人の国籍に変更はなく在日朝鮮人は日本国籍を保持すると主張した。しかし、日本政府は日本国民としての権利を朝鮮人に認めたわけではなかった。1945年末の選挙法改正にあたって、台湾人や朝鮮人の参政権を停止した。また、1947年、日本国憲法発効の前日には、最後の勅令として「外国人登録令」を施行し「当分の間、外国人とみなす」として在日朝鮮人にも外国人登録や強制退去などの規定を適用した。このように日本政府は在日朝鮮人を日本国籍者と規定しながら外国人として管理した。
このような日本社会で在日朝鮮人は朝鮮人として生きる権利の保障を求めた。在日本朝鮮人連盟(朝連)は、当時最大の在日朝鮮人の相互扶助団体としてこれらに積極的に取り組んだ。
なかでも朝連が力を注いだのは民族教育だった。戦前の皇民化教育によって自分が朝鮮人であることさえ負のイメージを抱いたり、朝鮮語を話せない子どももいた。日本の敗戦と朝鮮の解放にとまどいを感じた青少年もいた。
在日朝鮮人は失われた母語と民族文化の回復をめざして各地に国語(朝鮮語)講習所や学校を設置した。「金のあるものは金で、力があるものは労力で、知識のあるものは知識で」という呼びかけのもと、まさに手作りの学校が解放後わずか1年で500校以上も誕生した。

□参考著書▽歴史教科書研究会(韓国)/歴史教育研究会(日本)編▽明石書店発行『日韓歴史共通教材-日韓交流の歴史(先史から現代まで)』※

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

■■定住化の進展と民族差別撤廃運動■■

■指紋押捺拒否と自治体労働者との連帯
「コラム―在日コリアン初の東京大学教授に就任した姜尚中さん」
1982年に「外国人教員任用法」ができるまで日本国籍のない外国人は国公立大学の先生になることができませんでした。
この法律は在日コリアンの外国人教員らが日本政府に働きかけ、やっとできたものです。その結果、いまでは300人あまりの在日コリアンが日本の国公立大学で教鞭をとるようになりました。
在日コリアンとして初めて東京大学の教授となった姜尚中さんもそうした学者の1人です。
1950年、熊本市で生まれた姜さんは100戸ほどの在日コリアンが密集してくらす、いわゆる朝鮮人部落で育ちました。集落での生活はとても貧しく人々は養豚やヤミのどぶろく造りなどで生活を支えなくてはなりませんでした。
姜さんの実家の仕事は鉄くずやボロ布を集めて売る廃品回収業でした。姜さんは父母の仕事を手伝いながら勉強を続け、やがて早稲田大学政経学部へと入学しました。
大学では政治学を終了した姜さんはさらに同大学院の博士課程に進み、社会学者マックス・ウェーバの研究に没頭しました。79年にはドイツのエアランゲン大学へ留学、帰国後に国際基督教大学の準教授に就任し、政治学者としてスタートを切ります。その後、96年に東京大学社会情報研究所に助教授として迎えられ、1998年に教授に登用されたのです。
そうした研究生活の一方で、姜さんは在日コリアンが抱えるさまざまな問題に取り組みました。
大学時代、初めて韓国を訪れたことをきっかけに、それまで使っていた日本名を捨て民族名を名乗るようになりました。また、在日コリアンの学生が集まる団体に参加し韓国の民主化運動にも関わりました。
そんな姜さんに初めて日本社会から注目を浴びたのは85年のことでした。
外国人に課せられた指紋押捺の義務に反対し、埼玉県の指紋押捺拒否者第1号となったのです。当時、このニュースはマスコミで大きく報じられ、以来、姜さんはテレビや新聞にコメンテーターとして登場するようになりました。
そのコメントは、在日コリアンならではの視点を生かした切れ味鋭いものと評判になり、とくにテレビ朝日の討論番組「朝まで生テレビ」での論客ぶりは高い評価をうけました。いまや、姜さんは在日コリアン社会だけでなく、日本社会を代表するオピニオンリーダーとして知られる存在となっています。
執筆活動も盛んで、自分史を通じて在日コリアンの歴史を語った『在日』(講談社)は10万部を超えるベストセラーとなり、話題を集めました。その他にも『マックスウェーバーと近代』(岩波現代文庫)、『東北アジア共同の家をめざして』(平凡社)、『ナショナリズムの克服』(集英社新書)など多くの著作があります。

□ 参考著書▽民団中央本部が在日コリアンのために作成した著書、「歴史教科書『在日コリアンの歴史』から紹介□

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

――筆者の胸裏――


この項目を記述していて大阪市立小学校の民族講師の処遇問題に大阪府・市と何度も折衝して大阪府の覚書による民族講師、府内11小学校を民族講師を設置、閉鎖された学校を元の位置にしました。日本植民地支配から解放された戦後、母語や民族文化を指導するために立ち上がった1世たちでした。その1つが大阪市内公立学校に民族学級を設置した。GHQの占領下にあった日本、民族学級閉鎖令を出した。ここで阪神教育闘争が起きます。このとき一緒に闘った人が下記の文書で紹介、民族学級と阪神教育闘争等はまたいずれ紹介します。

今回は10月3日が旧盆の8月15日です。韓国では「秋夕(チュソク)」です。ソウルに住んでいる人たちはそれぞれの故郷に帰って名節・秋夕の祭祀を行います。
先日、民団新聞は秋夕にちなんで紙面を1面さいてこの記事(9月30日付)を掲載しています。筆者の担当は京都と大阪の地域、名節・命日の祭祀について京都で4人、大阪で1人取材しました。大阪で取材した金容海さんは大阪市立北鶴橋小学校で民族講師を定年まで務めました。定年後は民団大阪本部に勤務して大阪府・市との処遇改善の要望活動を行い問題解決をしてこられました。
一方で次世代に韓国伝統文化の祭祀、きちんとした祭祀の仕方も伝承しています。先日、9月25日に取材した内容を秋夕にちなんで紹介をします。

簡単に金容海(キムヨンヘ)さんの経歴を紹介します。
金容海さん(83歳=1世、生野区在住、済州道出身)大阪市立北鶴橋小学校で民族講師として勤務、定年退職を機会に民団大阪本部文教部部長になり民族教育と民族学級、民族講師の処遇問題など大阪府・大阪市と交渉を積み重ねた。民族講師の定年退職を機会に民族学級を閉鎖していく行政機関に対してその歴史背景について抗議、次世代の民族講師の採用に尽力された。現在の民族講師の11人は大阪府教育委員会管轄、大阪府費からの報酬(覚書による民族講師)、大阪市教育委員会の民族講師の処遇改善にも尽力された。大阪市内公立学校の民族学級・クラブの設置校は100校を越える。これも民団大阪本部と金容海さん、そして大阪市外国人教育研究協議会との連携作業で実現している。

chung-10-5-a-2.jpg

1994年1月16日、「知っておきたい祭祀」」の著書を関西済州道民協会から発行、A5版、102ページ建てで書かれている。「あとがき」を抜粋します。この本を出した1994年を想定して下さい。
「在日同胞の歴史も80年、戦後だけで48年を数え、1世は減少。そうした中で避けることができない家庭儀礼においてさえも民族的な伝統が失われつつある。とりわけ、私たちにとって大切に守りとおしてきた「祭祀」をどうしてよいのかわからないと言う声を聞くことも稀ではない。また葬儀の仕方や墓を建てる場合、さらに小祥、大祥などの「祝文」の書き方を知りたいという要望の多い。一方、古来の礼法の伝統を受け継ぎながらも時代に適合した新しいあり方を模索することも必然である。本書はそのような1世の不安感、2世、3世の期待感を年頭におきつつ時代の変遷を考慮に入れながら同胞社会において民族の伝統を残したいという思いにかられて編集したものである。

インタビューの内容、鄭容順の質問は―で質問していきます。金容海さんの回答は「」で括っていきます。
―京都の婦人会のオモニたちをインタビューして話の中にでてきたのが祭祀もしているが仏壇も置いているという。これにどう思われますか。
「国のしきたりもあるので私個人では受け付けられないですが日本に住んでいると地域のしきたりもあるでしょう。仏教を信じる。それもやむをえない。
生活環境が変わった在日です。環境の変化によって在日の環境も変化しているのかもしれません。地域のしきたり、環境がしていくものがあるのでしょう。
こうした話を聞くと国と伝統としきたり、今後、こうした祀りごとに深く考えていかなければならないです。
―法事と名節の違いは
「祭祀、つまり法事は日が暮れてからします。これが基本です。名節は午前中、お日様のある間にします。供物についてですが祭祀は酒と魚、ご飯、果物です。名節は正月の名節は『年始祭』ともいいます。8月15日は季節の祭りですので節袮という。つまり秋夕のことです。秋夕の基本は餅です。収穫した米を餅にして供える。それがソンピョン(松葉蒸し餅)です。正月・名節の供え物のメインはクックス、つまりトックック(韓国の雑煮)がメインです。夏は果物がありません。
それで取り入れのできる旧盆が秋夕になりますので旧盆に秋夕をするのです。
季節の供え物として旬のもの。梨、林檎。栗、ミカンなどです。本来の意味として秋夕は季節の旬のものを供えるのです。
祭祀も名節も基本は先祖を祭ることです。
名節、1年に2回です。御馳走を頂く。自分の親の霊を祭る礼儀は御馳走を並べて頂いてもらってそして旬のものをまた家族が頂いて健康に繋げていくのです。祭祀をした後、御馳走を頂くことは飲福(ウンボック)と言います。法事の食事を頂くことは飲福といいます。祭祀や名節は子孫の和合、激励して安否を確認していく。ここに祭祀の意義があります。
先祖にお供えして1番喜ぶものは酒です。礼をして酒を供える。供物に箸をのせて酒を注いでまた礼をする。線香を立てる。霊を招くものです。お酒は地下に眠っている魂、先祖の魂を浮き上がらせるのです。上から霊を呼びます。地下から先祖の魂を呼びます。霊と魂が合体していくのです。
祭祀をする時にそこに親が座っているのです。
厳粛な中で祭祀を行います。そして召し上がって下さいとご飯にしゃもじをさしていくのです。
祭祀は静かな環境、雰囲気、真心でします。行事は真心です。
もし、家にお金がなくて大変な時、お酒が供えられない時は朝の最初の水を汲んできて供える。これを「玄酒」といいます。朱子学ではこう言われています。
果物1個でも供えればいい。新鮮な物を供える。
5種類の新鮮な供え物、供え物でお酒が1番大事です。1番大事なのは情です。
しかし今は時代が変わって亡くなった人の好きな物を供えてあげればよいです。ラーメンが好きだったらラーメンを供えてよいのです。夏だったらアイスクリームの好きな人だったらアイスクリームを供えてもよいのです。時代の変化です。亡くなった人が生前、好きだった物を供えるのです。
地域で取れるもの。新鮮な旬のものを供えます。
たとえば済州道の特産はミカンです。北朝鮮にはミカンがありません。林檎を供えます。地方の特産物を供える。洛東江で取れた魚でもいいのです。
生の栗を供えることは香(かおり)があるからです。
―果物の上を少し切るのはなぜですか。
「果物を供える時に上を少し切ります。梨にしても林檎にしても。これは先祖に香(かおり)でこれは林檎、これは梨と教えているのです。桃とキムチは供えません。
―桃とキムチを供えないのなぜですか。
「桃は供えません。病人が出て巫女を呼んで祈祷をしてもらうときに桃を供えます。悪霊を追い払うために使います。桃を供えると親の霊を追い払うようなものです。キムチは香辛料が強いので祭祀の供物には使わないです。
―近年、在日の家庭でも翌日の学校や会社のことを考えて昔のように夜中には祭祀をしないで夜の8時、9時にしますがこのへんのことを教えてください。
「命日の法事は日が暮れてからするのが基本です。亡くなった霊は12時過ぎに霊になります。亡くなった当日はまだ生きています。亡くなった日の午前12時が霊になります。命日は当日の午前12時にするのです。
例えば9月24日の朝に亡くなるとその前の日にするのでなくて亡くなった日にする。これを当日祭といいます。だから24日亡くなると23日の12時の深夜にするのが正しいのです。だから前日の夜中の12時にしていたのです。
現在、ソウルでは亡くなった日にしています。当日祭と言って祭祀をしています。晨祭といいます。夜明けにする。今は夜中にすると翌日の仕事などがあって困難なことから当日の明け方にする。韓国ではこうした祭祀の仕方をしています。朝に祭祀を行う。亡くなった日の早い時間に祭祀をしている。
―茶礼の意味を教えて下さい。
「茶礼は略式の祭祀のことです。お酒を1回注いで礼をして終る。簡略にしたことを茶礼といいます。お茶いっぱい供えて礼を1回する。こんなことを茶礼といいます。形式だけして先祖に報告をする。
たとえば長男が結婚をする。そんなとき先祖に報告をするのにお酒を1回、注いで供えて結婚することを報告する。形式的な報告をすることで茶礼はよくします。
―他に祭祀のあり方に今後はどうすればいいですか。
「私個人が今、考えているものがあります。秋夕は旧暦の8月15日にしています。新暦は真夏で供えるものがありません。また旧暦ですると仕事、学校のこともあります。祭祀も老夫婦2人がして何も意味がありません。日本の祭日、秋分の日の祭日に合わせてしてはどうだろうかと思うのです。
子孫が多く参加することで先祖たちも喜ぶのです。子どもや孫がいて先祖の祭祀になります。皆集っていくことに意味があります。日本の祝日にあわして新暦の秋分の日に『秋夕』をする。そうすれば祭祀の後、皆ゆっくりと供え物を頂くことが出来ます。新暦の8月15日も慌しい。皆それぞれに組織の行事などがある。祭祀が終ると慌しく帰っていく。気持ちよく先祖の霊と仲良くしていくには旧暦の8月15日の『秋夕』を在日韓国人は日本の祝日、『秋分の日』にしたらどうか。私はこれから提案していきます。秋夕は名節です。先祖も子孫が参加してゆっくり皆と過ごせることで先祖も喜んでくれます。時代が変わり生活様式も変わり旧暦8月15日は日本の秋分の日にする。考えてみたが『精神の日』としてこれが理にかなうのです。金容海の『提唱』です。
祭祀についての問い合わせはいつでも承ります。今もよく問い合わせの電話がかかっていて 対応しています」

【写真説明】毎年2月の初めに民族学級で学ぶ子どもたちを対象に開かれるハングルカルタ大会、この写真は2008年の開催、大阪市内公立学校民族学級の設置校が交代で開催している。金容海さんの教え子たちが次世代に民族文化を伝承しています。筆者が撮影。


2009年10月 5日 00:47

ご意見・ご感想は読者の広場もしくは、下記のコメント欄へ

コメントする

なお、著作権上問題があるおそれがある内容、特定の個人・民族・法人等への誹謗中傷、またアダルト・サイトへの誘導などの書き込みがあった場合、管理人の判断で断りなく削除します。

Untitled Page