2009年10月 1日
〓雑記帳〓〈46〉:鄭容順
―朴尚任さんの半世紀(3)―
朴尚任さんが記憶を手繰って話した。記憶力のよさに筆者は驚きながらメモをした。メモしたものをそのまま記述していきます。
朴尚任さんは日本植民地時代の1919年、韓国慶尚北道大邱市の近くで生まれ幼少の頃、大邱市に引っ越してきた。
17歳でハンゴンさんと大邱市で結婚、21歳の夫と一緒に正月、日本で働くために一緒に来た。寒い時に来たことを記憶している。
最初に来たところは京都府相楽郡上狛町棚倉村。しばらくして大阪に行くが働く所がなくてまた棚倉村に戻ってきた。
棚倉村から上狛町の高麗村に引っ越しをした。夫のハンゴンさんは相楽郡の隣、綴喜郡井手町でマンガン堀の仕事をしていた。一時、住居を井手に移した。マンガン堀の仕事が中止になってまた高麗村に戻ってきた。
そしてこの頃、戦争が激しくなっていた。
ある日、ハンゴンさんに「徴用」の手紙が来た。
当時、ハンゴンさんは高麗村からそう遠くない。井手町との間にある長池にあった飛行場建設工場で働いていた。朴尚任さんは文字が読めないので何を書いているか分からない。近所に住んでいた大山さんと言う人に見せた。
大山さんは言う。
「徴用が来た」
その時、朴尚任さんは長女と次女がいた。
朴尚任さんは「徴用が来た」という言葉に驚いた。
夫が徴用に行く。朴尚任さんはハンゴンさんが徴用に行くと死ぬと思っていた。
こんな小さい子どもを置いて死んでいく。これから3人どうして生きていこうと思った。それで朴尚任さんは長女を大山さんに預けて次女を負ぶって今はJRだが当時の国鉄奈良線から汽車に乗って長池に行った。
朴尚任さんは話す。
「まだ言葉は何も分かりませんでした。日本語は何もできませんでした。言葉は分からなかったが長池の駅で降りて駅長にわかっている日本語『飛行場、飛行場』と言うと駅長は『飛行場は駅を出てこの道の細い道を行くとよい』と教えてくれた。いう通りに歩いて行った。
飛行場の建設工場が見えた。トロッコが細い道の横を行ったり来たりしていた。
トロッコにハンゴンさんが乗っていた。朴尚任さんを見つけたハンゴンさんは土を降ろして来てトロッコを途中で止めて降りてきた。
朴尚任さんは来た手紙をハンゴンさんに見せた。
朴尚任さんはハンゴンさんに言った。
「とうとうきているわ」。
そしてここの現場の親方が同胞だった。工事責任者の同胞、張さんもびっくりした。この張さんは後に木津に住むことになって筆者も記憶している。人の良い人だったと記憶している。張さんも思った。幼い子どもを置いて徴用に行ってはいけない。
張さんは「親方に話してみます。徴用に行かないようになんとかします」と言ってくれた。
朴尚任さんは話す。
「親方も同胞で現場の責任者も同胞でした。現場責任者は検査逃れが出来るように親方に話してみると言ってくれました。全羅南道の人でしたがいい人でした。親方に話してくれたおかげで徴用に行かなくてすみました。そのかわりに山奥に行くことになりました。徴用の変わりに相楽郡木津町梅谷の山奥で土を掘る仕事をすることになりました。当時の梅谷は山奥でそっちに住まいは移るのですが山奥で何もないところでした。家はすべてバラック建てでした。住んでいる人は朝鮮人ばかりでした。山奥で何もない。草を取って食べました。親方が山奥の梅谷に行くようにしてくれたのですが高麗村から梅谷に引っ越しをして行く。リャカーに荷物を積んで歩いて行きました。荷物と言っても何もありませでしたが高麗村から歩いて行きました。これは大変でした。長女と次女は荷物と一緒にリヤカーに乗せて歩きました。高麗村から上狛、上狛から木津、木津に入ると奈良県の近くの梅谷まで行きました。木津川は当時、木の橋でした。その橋を渡っていきました」
筆者はこの話を聞きながらこれは大変だと思いました。
高麗村から歩いて上狛まで1時間、上狛から木津まで40分、木津から梅谷までまた1時間以上はかかる。木津から梅谷の道はずっと坂道である。
今のように舗装もしていなかった。
当時の荷物、柳行李だった。「柳行李に衣服など詰めて運んだ」と朴尚任さんは言う。
木津の梅谷にいた時に戦争が終った。戦争が終って6軒住んでいた朝鮮人5軒は梅谷を離れた。韓国の故郷に帰った人もいるだろう。
朴尚任さんの家族1軒だけが山の中の梅谷に残った。
梅谷は動物園のようだった。山奥なので猪がいて狐も狸もいた。1軒住んでいる朴尚任さんの家をぐるぐると狐たちがまわっていた。
「これは怖かった。山奥の梅谷、夜になると本当に怖かった」
それにハンゴンさんは家にほとんど帰ることがなかった。
この頃からハンゴンさんの賭博人生が始まって朴尚任さんのまた違う苦労が始まった。
子ども2人と朴尚任さん。梅谷の山奥は怖くてここでは住めないと考えて木津の町に引っ越しをすることになった。
そこが筆者の実家から数十メートル離れたところだった。
筆者より朴尚任さんの家族がこの町に先に来て住んでいたと思っている。筆者の生まれたところは上狛学校前、6歳の時(1950年)、木津川に架かっていた木の橋を歩いて渡って来た。リヤカーに荷物を積んで母親がリヤカーを引いて筆者はリヤカーを押している母親の横を歩いていたことを記憶している。
たまたま筆者の実家は韓国に帰るという人がいてこの家を父親が買った。上狛町に住んでいた。住んでいた近所で土地を買って家を建てようとしたが地元の人が先祖の土地は売れないと言って売ってもらえなかったと父親から聞いている。筆者は6歳で引っ越ししてきた。この家はかなり古い家で昔は料亭だったが理由ありの家だった。それで朝鮮人のある人が買って住んでいた。父親の話ではもう1軒の物件もあったが小学校に近いという理由で理由ありの家だったがこの家を買ったと聞いている。
この理由ありの家で住んでいた朝鮮人、戦後ここで密造酒をしていて警察に捕まりそうになった。あわてて父親に家を売って密航で韓国に帰って行ったと父親から聞いている。
朴尚任さんはとりあえずということで1軒の家で2軒が住んでいるというところに引っ越しをされた。それは大変苦労されたと筆者なりに考えている。
次回は木津に引っ越しした後、後に桜井に引っ越しされることを書いていきます。
【写真説明】2008年2月ら開かれた夜間中学校研修会で展示された天理市立北中学校夜間学級の生徒たちの作品。筆者が撮影。
2009年10月 1日 00:03
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