'."\n" ?> チョン・ヨンスンの「ぽけっとジャーナル」:「あの日、あの時」≪136≫:鄭容順
チョン・ヨンスンの「ぽけっとジャーナル」

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2009年9月28日

「あの日、あの時」≪136≫:鄭容順


■ 日本の朝鮮・韓国人(日韓条約締結まで)
「『解放民族』としての朝鮮人と敗戦国の日本人」
日本に留まった朝鮮人にとって、敗戦国の日本で生活することも決してたやすいことではなかった。

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その大多数は戦前以来の劣悪な暮らしを続け、これまで従事してきた廃品回収、日雇労働という職でさえ失業したり戦地から帰国した日本人に奪われることもあった。都市では生きるために「やみ市」で小商いをする朝鮮人も増えた。当時、多くの日本人もこのような「やみ市」を利用しなければ生活は成立たなかった。
GHQは、日本にいた朝鮮人を基本的には軍事上の安全が許す限り「解放民族」として扱うことにした。しかし、敗戦にうちひしがれた多くの日本人にとっては、戦前以来、自分より劣等な存在と見下してきた朝鮮人が解放の喜びにわきたつ姿に「戦勝国民のごとき態度」と不愉快に思う感情もあった。
日本人の中には自らの生活の不安や閉塞感を朝鮮人に対する偏見・差別に転化する者もいた。そして、こうした意識は「第三国人」という差別表現を生み出した。この言葉は国会の場でも用いられ「やみ市」を牛耳る「第三国」が治安や日本経済までも撹乱している、という偏見が流布された。

□参考著書▽歴史教科書研究会(韓国)/歴史教育研究会(日本)編▽明石書店発行『日韓歴史共通教材-日韓交流の歴史(先史から現代まで)』※

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■■定住化の進展と民族差別撤廃運動■■

■指紋押捺拒否と自治体労働者との連帯
「指紋押捺制度の全廃と常時携帯義務の存続」
そして拒否者の告発を留保する自治体労働者も続出し、警察からの照会に応じない人も現れました。自治体労働者の連帯運動とあいまって、指紋押捺拒否をする外国人が急増し、結果的に指紋押捺制度を廃止に追い込むことになりました。
そして、ついに1999年、在日コリアンによる指紋押捺拒否運動が指紋押捺制度の全廃という形で結実しました。たった1人の在日コリアンの闘いが、多くの在日コリアンの賛同を呼び法律が改正されるという画期的な成果をもたらしたのです。
しかし、指紋押捺とならぶ問題である常時携帯制度は改正されませんでした。
外国人が登録証を常時携帯していないといういうだけで罰せられるような法律がいまだにまかり通っているということは日本が外国人の人権に対して、いかに鈍感であるかという証拠だといえます。

―在日コリアンを擁護した勇気と信念ある日本人たち―
解放後もさまざまな事情から日本に残り、やがて定住するにいたった在日コリアンですが、その生活権の拡充のために共に立ち上がった日本人は大勢います。
梶村秀樹(1935―89、神奈川大学教授)さんは59年、在日コリアンの研究者らとともに朝鮮史研究会を設立しました。梶村さんは植民地支配を美化し合理化する、日本の戦前・戦後の支配層の論理を打破しょうとしたのです。
その後、68年の金嬉老事件では公判対策委員会の世話人となり、80年代の外国人登録法改正運動にも大きく寄与しました。
アジア学生文化協会での仕事を通じて、在日外国人のあまりにも不安定な地位と処遇に憤りを感じたのが田中宏(一橋大学名誉教授、龍谷大学教授)さんです。希望に燃えた留学生が失意のまま帰国する姿を見た経験が、定住外国人の地方参政権獲得に向けて活動しています。
日帝は樺太(サハリン)に朝鮮人を徴用しましたが、解放後、日本人は帰還できたのに朝鮮人の大半はそのまま残されてしまいました。いわゆるサハリン残留問題です。彼らの永住帰国に道筋をつけたのが、戦後補償問題に詳しい高木健一弁護士です。高木さんは賃金未払い問題の解決に向けた基金造りを提起しています。

□ 参考著書▽民団中央本部が在日コリアンのために作成した著書、「歴史教科書『在日コリアンの歴史』から紹介□

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――筆者の胸裏――

日本で言うと今年の十五夜は10月3日になる。日本では各地域で様々な行事がされます。奈良市の猿沢池では、ある采女が寵愛を受けていた人に裏切られて猿沢池に入水をします。入水した采女を偲んでここで「采女祭」が夕方になってから行われます。月見団子にススキを供えて十五夜を観賞するのが日本の文化として昔から親しまれています。
韓国では10月3日は「秋夕(チュソク)」、旧盆の当たる日に朝から家族・親戚が揃って膳に供物を並べて先祖を迎えて祭祀を行います。
これが終ると一家は墓地に行き墓地に供物を並べて祭祀を行うのです。
供えた物を家族で食べて豊作に感謝して来年のことを祈願します。
かつて一時期、韓国も旧暦の「秋夕」を新暦に変えたことがあった。「秋夕」になると会社員は2日から3日の休みをとる。それで政府は新暦にするようにと提唱したがこれが制度的に出来なかった。儒教文化のしきたりの中で韓国伝統の祭祀をする。旧暦にするから季節に取れた旬のものを供えることができる。真夏に穀物も収穫できない。そんな理に反した祭祀ができなった。先人の知恵がたくさん詰め込まれた旧暦にこだわった。
新暦の提案しているにもかかわらず旧盆になるとソウルにいる人たちは親や家族の急病を理由にして休暇を取って故郷に帰っていった。
そしてソウルの町は皆が皆、急病人を出して田舎に行く現象に韓国も新暦で提唱することをやめた。そして旧暦の8月14・15・16日は祝日にした。
そしてこれを前後にして韓国は祝日が多い。
今年を例に見ると新暦10月2日は旧暦の14日になる。「望郷祭」で韓国公休日、新暦10月3日はまた15日の「秋夕」は「開天節」で国慶日になる。
また新暦10月9日はハングルの日である。旧盆の「秋夕」と前後している祝日になると10月に旧盆になるとかなりの休みになる。
今年10月3日は本来、「開天節」で公休日と重なっている「秋夕」。韓国の人たちは2日、ずれていればと思っているだろう。

在日コリアンの家庭も1970年まで旧暦で「秋夕」や「正月」の名節をしていた。1世が家長として健在している家がまだ多くあったので韓国のしきたり通りに旧暦にしていた。しかし日本の会社に勤務する人、また子どもの学校もあって新暦で名節をするようになった。
筆者の家は1960年9月に祖父が亡くなった。
1961年の「秋夕」の名節は新暦でするようになった。家の家長、祖父が亡くなって家の長男だった筆者の父親が祭祀を引継いだ。
父親は筆者の小学校に入った頃から京都にある日本の会社に通勤していた。
当時、会社に勤めている日本人も会社人間になりつつあった。父親もごたぶんにもれず会社人間だった。そして父親が引継いだ後は新暦で正月や盆をするようになった。
筆者の記憶にあるのは中学時代、中学1年の秋に結婚した叔父夫婦、翌年の秋夕は旧盆だった。確か学校が休みだったから私も桜井にいた。学校が休みでないときは中学に入ると妹と家で留守番をした。小学校の時も5年までは親と一緒に祖父が住んでいた桜井に行っていたが6年になると留守番をした。
隣町にいた母親の姉の子ども、1歳下の従兄弟が1度泊まりに来てくれている。
中学1年の旧盆はたぶん学校が休みだったので桜井に行ったのだろう。
まだ結婚したばかりの叔母は何年か先に結婚した叔母を連れて三輪山の麓にエゴマの葉を取りに行くと出かけることになった。
筆者も一緒に連れて行った。しかしエゴマを取っていたようではなかった。
2人の叔母は年が同じなので話があったのか外にでて話をしたかったのだろうかとこの頃そう思う。
1961年の「秋夕」の祭祀は筆者の家で新暦でするようになった。日本の盆休暇に親戚が集まった。
叔母が大勢いたので3日前になると祖母がやってきた。そして1日前になると叔母たちが来て筆者の実家で供物を作る準備をした。
その時は土間も縁側も祭祀の供物作りに幾つもの七輪が並んだ。
七輪で魚やチヂミを焼いた。叔母が大勢いたので私は何もすることはなかった。
高校卒業してからは会社に勤めるようになって祭祀のことを手伝うことが出来なかったが正月休みの時は祖母に魚を焼くようによく言われた。
見て覚えていくようにするための躾だったと今は思っている。
そしてその当時、会社員になって外で美味しいものを食べるようになって祭祀の供物を食べる気になれなかった。
台所で筆者1人の玉子焼きを作る筆者の姿を祖母が見た。穏やかな祖母でめったに怒られたことがなかった。しかし祭祀の供え物を食べない筆者に祖母は韓国語で「チララハンダ(何はバカなことしているという意味)」と言った言葉が今も鮮やかに覚えている。ふとしたときに「チララハンダ」と言う言葉を思いだす。
祖母は筆者の顔を見ると「パンムウンナ(ご飯食べたか)」と言っていた言葉も思い出す。会社勤めをしている時は細かった筆者、慶尚南道の方言で「そんなにやせていてどうする。もう少し太らないと」といつも言われていた。
そのたびに心の中で言っていた。
(あんたの息子が厳しすぎてうるさいから太ることができない)と、父親の不満を心の中で言っていた。
祖父が生きているときはアヒルを飼っていた。祭祀にアヒルの卵を焼いていた叔母たちのことを思い出す。旧正月の供え物のメイン、「トック(韓国風雑煮に入れる餅)クッ」に入れる錦糸玉子を焼いていた。
祖父がいた頃は家でトックも作っていた。補足長いトックを叔母たちが揃って座って切っていたことを思い出している。また祖父がいた時は祖父が蒸し豚も家で作っていた。裁いた豚を湯がいて針金につるしていたことも鮮やかに思い出している。この光景に側で暮らしていた叔父夫婦は「もう大変だった」と言っていて言葉も思いだす。そういえば昔は祭祀の供物、家で作れる物は家で作っていたのかとあらためて見直している。1世のオモニ(お母さん)は仕事もして祭祀の準備もして身を粉にして働いていたのかとまた見直している。
時代が変わって今は祭祀の準備と言っても昔ほどのことではなくなった。
在日コリアンの祭祀の供物も電車に乗るにしても交通は便利になった。また家に車がある時代になって祭祀の食材は大阪鶴橋に行けばたいていのものは揃う。便利になった。今はまた宅急便で購入できるようになった。祭祀も1世から2世、2世から3世と引継がれていく。
嫁たちは姑に教わったそのままを今ままで韓国伝統文化を守ってきた。簡略しながらも祭祀をしている在日コリアンの家庭である。
日本国籍に変えても祭祀をしているのがほとんどだろう。
やめることができない何か感じるものがあるのだろう。しらずしらずのなかで韓国のDNAが作用しているのだろう。
しかし日本文化もしっかりと身につけて生きてきた在日コリアンでもある。
10月3日の「秋夕」を前にして感じたことを書いた。
【写真説明】昨年秋、大阪人権博物館で開かれた在日韓人歴史資料館の「在日100年史展」をされた。ここには1世が故郷で使っていた祭祀の膳を日本に持って来て使っていた。歴史資料館に寄贈された。若い世代にこうした歴史を知ってほしいという願いから供物を並べての展示。日本人大学生らが興味深く見学していた。(筆者が撮影)

2009年9月28日 00:44

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