2009年8月17日
「あの日、あの時」≪130≫:鄭容順
■日韓条約の締結
「日本での日韓条約反対運動」
1964年にアメリカがベトナム戦争に本格的に介入し、核実験に成功した中国が国際社会での発言権を強めた。
これに対して東アジアでは共産主義の拡大を防ぐため、日・米・韓の協力体制の整備が緊急の課題とされた。
この時期を前後して両国では反共を重視する政界と経済交流を早急に実現しょうとする財界人の影響力を背景に両政府は急速に日韓会議を推進しょうとしていた。しかしこれに反対する勢力も少なくなかった。
日本では、1950年代を通してアメリカとの同盟関係を批判する全面講和運動や、核兵器の撤廃を訴える原水爆禁止運動なども平和と民主主義を要求する市民運動の力量が蓄積されていた。
特に1960年には日本とアメリカの軍事的関係をさらに強化した新安保条約が締結され、これに反対する反政府運動は平和憲法に立脚し、日本の再武装、ベトナム参戦、東アジアの軍事同盟参加などに反対する安保闘争の論理の上で展開された。そのため日本国内で過去の植民地支配の負の遺産の清算と両国間の戦後処理という観点から条約締結に反対した勢力は朝鮮半島出身者を中心にした少数の団体にすぎなかった。
〓全面講和運動〓ソ連と中国等を除外したアメリカ主導の講和(片面講和)ではなく、あらゆる交戦国との講和(全面講和)を要求した運動。
〓原水爆禁止運動〓核兵器の全面廃止を要求した運動。1954年、アメリカのビキニ環礁での水爆実験で日本の漁船が被爆したことを契機に東京杉並の主婦が起した署名運動から始まって全世界に広がった。
□参考著書▽歴史教科書研究会(韓国)/歴史教育研究会(日本)編▽明石書店発行『日韓歴史共通教材-日韓交流の歴史(先史から現代まで)』※
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■■定住化の進展と民族差別撤廃運動■■
■在日コリアンの定住化と国籍条項・就職差別撤廃運動
「公言力の行使」と「公の意志形成」
このような運動が顕在化するまで在日コリアンには「外国人だから公務員になれないのは当然だ」という意識がありました。しかし、国家公務員法や地方自治法には外国人は公務員になれないという規定は一切存在しないのです。唯一それに近いものは、1953年に内閣法制局が提出した「公務員に関する当然の法理」という見解でした。それは「公権力の行使または公の意志形成に参画する公務員になるには、日本国籍が必要だ」という法解釈です。内閣の法制局の役人が出した法律ではないこの1本の通達を根拠にして、国や自治体は法律学校や公務員採用にあたって国籍条項という厳しい制服をつけてきました。他の国の主権におかれている外国人が日本の公権力の行使、あるいは公の意志形成に参画するのは不適切だという考え方がまかり通っていたわけです。
こうした考えに反旗をひるがえした外国人の公務員任用運動は、1974年に関西の大学に勤めていた在日コリアンの教員有志が行った「国公立大学における外国人教授任用運動」がその始まりです。当時、日本の国公立大学には外国人が公務員になれないという暗黙の了解があり、助手などを除いて外国人の教授はほとんどいませんでした。
このような現状を打破するため、75年「大学教員懇」という在日コリアンの組織が当時の文部大臣へ「国公立大学の教員にアジア人の採用する措置をはかってほしい」という請願書を出したことが、この運動のスタートになりました。この運動は多くの日本人学者の心をうち、やがて全国的な運動に発展していきました。そして77年、現行の法令下でも外国籍者を国公立大学の教授に任用できる公式声明が初めて発表されました。そしてこれを受けて1982年、「国立又は公立の大学における外国人教員の任用等に関する特別措置法」(現在の「公立大学における外国人教員の任用等に関する特別措置法」)が成立しやっと外国人も国公立大学の教壇に立つことができるようになりました。
この特別措置法は当然の法理として国公立大学において外国人を教授として任用し、外国人も教授会の議決に参加できることを認めました。その点で当然の法理に風穴を開けた画期的な措置であったといえます。しかし残念ながら大学によっては外国人教官には任期を定めているところがあります。まだまだこの分野でも改善しなくてはならないところがあります。
○公立の大学等における外国人教員の任用等に関する特別措置法第2条
1 公立の大学においては外国人(日本の国籍を有しない者をいう。以下同じ。)を教授、助教授又は講師(以下「教員」という。)に任用することができる。
2 前項の規定により任用された教員は、外国人であることを理由として、教授会その他大学の運営に関与する合議制の機関の構成員となり、その議決に加わることを妨げられるものではない。
□ 参考著書▽民団中央本部が在日コリアンのために作成した著書、「歴史教科書『在日コリアンの歴史』から紹介□
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――筆者の胸裏――
在日韓国人教授で1番身近に感じる人は奈良市在住の徐龍達さん。そして大阪市大の朴一さん。そして金東勲さん。徐龍達さんは大方10年前に桃山学院大学を名誉教授で退職された。金東勲さんも龍谷大学を退職されて今は韓国と日本を往来した生活をしておられる。朴一さんは大阪市大の現役教授である。
徐龍達さんは外国人教授の任用に対して日本政府に請願書を提出して市民活動をされた人である。今はもう70歳を越えられたと思う。奈良市学園前に住居を構えて在日コリアンのための活動をしてこられた。教授になっても在日コリアンの学生たちの支援、在日韓国人奨学会を創設して長年、経済人や文化人らから寄付金を集めて学生たちに奨学金を授与してこられた。徐龍達さんは学者タイプだったが会計学の教鞭を取っておられたので現実も直視しておられた。民族精神と一緒に日本社会に対する矛盾を訴えてこられた。
表面は穏やかな人だが在日コリアンに対する運動してこられたことと長年の教授生活には自負心を持っておられた。
民団組織と朝鮮総連組織、学生たちに教えていると双方の学生たちを見ていることから客観的に物事を見て双方の組織に問題点も言える人だった。朝鮮総連組織のことはわからないが民団組織から見るとけむたい存在だったたろう。
民族的精神は日本の大学で教鞭を取っておられても強固に持っておられた。
しかし筆者は思う。
1つや2つ相反する言動もあるかもしれないが1933年、韓国釜山で生まれて大学に行くために日本に来られた。大阪市立大学商学部卒業、神戸大学院博士課程修了、1963年、桃山学院大学専任講師になられている。後に教授になられた。
しかし順風満帆ではなかった。講演でよく話された。大学を卒業しても就職できなかった当時の日本社会の差別構造をあぶりだして話された。
日本の戦後、在日コリアンはどうだったのか。その当時の体験は数々持っておられるだろう。学者としてではなく1人の在日コリアンの生き字引の体験を聞きたいものである。
金東勲さんとも何度もお会いした。生駒市に住んでおられた。
韓国動乱(朝鮮戦争)が嫌で日本に密航してきたというのが講演で聞いた内容だがこれも本当か筆者は確認などとれない。
講演会では国際法、人権規約についてずいぶんの講演を聞いた。自決権などもよく聞いたが筆者は未だによく理解できていない。マイノリテイー、マジョリテイーの言葉も教わった。
こんな難問題を研究する人がいるから在日コリアンの法的問題を浮上させて市民たちを運動展開に巻き込んで行く。なるほどと思いながら聞いていたが未だに筆者は理解できていない。
「民族教育促進協議会」という活動グループがかつて20年ほど前に大阪で創設された。この中に金東勲さんも参加して様々な問題を突きつけて日本の公立学校に設置されている民族学級の民族講師たちの処遇改善や公立学校に就学する在日コリアンの文書などに抗議して運動などの仕方を指導してこられた。今はこの活動グループは存在しないが活動した人たちはまた違う名称のグループを作って多くの活動しておられる。これも金東勲さんが陰で支援されて残したものだろう。
朴一さんは現在も大阪市大の教授をしておられる。
民団組織で有名になったのが10数年前に民団中央本部が設置した民団組織の会員や市民たちを対象にした「民族講演会・講座」だった。歴史・文化・経済などの講座が多種に行われた。10数人の講師陣に朴一さんが選ばれて民団大阪本部での開催に講師の一人として名を連ねた。
講師人で1番若い存在で参加者から人気を博していた。在日コリアンの経済人を例にだしての成功例と裏話をされたが参加者は熱心に聞き入ったものだった。
現在も大阪同胞保護者連絡会の講演会などでお目にかかり若い青年たちの講演活動に招かれている。先日も大阪で開かれた貿易スクールにも招かれていた。
そして1番のおなじみはテレビ出演。熱い論議が日本人と交わされる。在日コリアンの問題について反論する日本人には徹底的に論議されているのを見ると熱い気持は伝わるが日本人の歴史認識のなさにテレビを見ている筆者は気の毒になってくる。
この後、仕事の現場でお会いすると筆者はつい言ってしまう。
「先日のテレビでは熱い論議をしていましたね」と言うと朴一さんは笑いながら「熱いとたくさんクレームがつきます」と話される。その気持は朴一さんも複雑だろう。2世と言っても若い。ほとんど日本が経済成長したころに青春を過ごし大学生活を送っている。日本文化などが体に染み込んでいるだろうがルーツは韓国にある。本名を名乗っての大学教授そしてテレビ出演、テレビは多くの在日コリアンが見ている。やはり在日コリアンの立場にたっての論議の争点になる。講演会では筆者の知らなかったことが次ぎ次ぎと話される。若者たちはぜひ1度は話を聞いて頂きたい教授である。
かつて在日韓国人の日刊紙の新聞社で記者をしていた時に「在日韓国人の学者シリーズ」の連載記事を担当していた。筆者は京都の大学で教授をしている人を何人か取材して記事にしたことがあった。立命館大学にもおられた。取材をして記事にした。何人か取材して記事にしているのに名前も思い出さない人もいる。その場その場の取材、取材したものを記事化した。内容は十分に把握しないでただ取材メモを見て記事化した。筆者の勉強不足を認識しながら記事にしたものだった。
同志社大学の教授も取材して記事にした。取材の後、この人から北朝鮮を批判した著書が送ってきた。何度も手紙も来た。そして次にお会いした時に筆者に言われた。「北朝鮮に行った日本人妻の帰国運動の組織を立ち上げてほしい」と言われた。当時、筆者は40歳半ばだった。野心があればそんな活動も引き受けたかもしれないがそんなことでリーダーになる野心は微塵もなかった。
断ることは言葉に出さなかったがその人から離れていった。手紙にも返信をしなくなった。今考えると野心がなかった筆者が正解だったと思っている。
そしていつも心にあったのは父親の言葉「政治に関与するな」だった。この言葉が根底にあったのでひたすら書くことだけに徹してきた。
多くの在日コリアンの教授にお会いしてきたが記憶の中からほとんど途切れている。ただ1人まだ覚えているのは姜在彦さん。花園大学の教授を長いことされて退職されたことを聞いている。取材は難しい政治論の法則だった。今はその言葉が思い出せない。難しい政治論だった。取材して原稿を出稿して編集局が整理している中で何度も電話取材をしなければならなかった。難解な取材に右往左往した筆者だったことを記憶している。
しかし姜在彦さんは人間的には温かい人柄だった。ユニークな言葉の数々は韓国人が言葉遊びの上手なところの民族気質をたくさん持っておられた。
取材先で対面した姜在彦さん。真っ白のカッターシャツ、洗濯の行き届いた身なりに奥さんの影の力が大きいと筆者なりの見解だった。そして3年ほど前に大阪にあるドーンセンターでの講演会に参加した。その時の講演者が姜在彦さんの奥さんだった。日本人だが大学で教鞭を取っておられドーンセンターでも活動しておられた人だった。初めて姜在彦さんの家庭を垣間みた。もともと温かい人柄の姜在彦さんだがこの家庭の基本があったのかと知ることになった。
在日コリアンの教授たちの存在、最初に問題提議した徐龍達さんがいたことも在日コリアンの歴史の中で忘れてはならない。多くの人たちが1つ1つの問題に提議して日本の法律を見直してきたのである。1世や2世の生き様の歴史は忘れてはならない。
まだまだ多くの在日コリアンの人たちが大学で教鞭を取っておられるが筆者が紹介したのはほんの1部である。
今、また大阪市大で教鞭を取っている韓国生まれの日本人と結婚した教授が大阪市内にある龍王宮に住んでいる不法占拠について行政交渉をしておられる。
ここは大川があり海、そして済州道につながると信じて祈祷を行ってきた在日コリアンの文化や歴史がある。このことを踏まえて歴史的文化遺産として残す活動しておられる人がいる。論議的に物事を組み立てていく。学者たちが立ち上がって今活動しているグループもある。
女性では京都大谷大学で教授をしている鄭早苗さん。筆者と同じ年である。神戸大学を卒業して韓国・朝鮮の古代史を研究しておられる。日本とのつながりを詳細に説明される在日韓国人女性、関西では貴重な存在である。
【写真説明】こりあんコミユニテイ研究会が主導して龍王宮のフイルドワークが行われている。4月12日も行なわれた。その後、6月に行なわれ8月22日にも開かれる。写真は桜満開の4月12日、フイルドワークをする人たちを筆者が撮影。
2009年8月17日 00:11
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