2009年5月24日
「あの日、あの時」≪118≫:鄭容順
■日本の敗戦と朝鮮半島の解放
「1945年8月15日、歓呼する朝鮮半島」
朝鮮人も8月15日正午、日本天皇の放送を通じて日本の無条件降伏の事実を知った。この日、街へ飛び出したソウル市民は光化門一帯と鍾路交差点を埋めつくした。この日、解放を喜ぶ人たちの万歳の声で朝鮮半島全体が大きく揺れた。

朝鮮人の報復を恐れた朝鮮総督府はすでに朝鮮人指導者呂運亨に不祥事が起こらないように要請していた。これに応じた呂運亨は代わりに朝鮮各地に拘束されている政治・経済犯の即時釈放、3ヶ月間の食糧確保など5つの条件を提示し、朝鮮総督府はこれに同意した。
呂運亨は8月15日、朝鮮建国準備委員会を結成し、建国の準備を進めるとともに最初にソウルにある監獄から抗日志士を釈放させた。
この日は、朝鮮人が日本の植民地支配から解放された日であった。それまで、日本人によって国土は蹂躙され多くの文化財が略奪され、数十万に達する青年や女性が軍人や労務者あるいは「慰安婦」として連行されていった。そして抗日民族解放闘争の過程で数多くの朝鮮人が朝鮮半島や満州及びロシアで血を流した。
この日は、独立国家建設に向けての第一歩を踏み出す日でもあったが、解放はそのまま独立を意味したのではなかった。大韓民国臨時政府や華北朝鮮義勇軍、東北抗日連軍などの団体がそれまで日本と闘ってきたがその中のどの団体も連合国から代表として承認を受けることができなかった。むしろ連合国は、ヤルタ会談(1945年2月)で朝鮮半島の信託統治を暫定的に決定していた。朝鮮人は力を1つに合わせ連合国との協調の下で独立国家を建設しなければならないという課題を抱えることになった。
〓ヤルタ会談〓第2次世界大戦の末期である1945年2月4日より11日までアメリカ大統領のルーズヴェルト、イギリス首相のチャーチル、ソ連首相のスターリンがロシアのクリミア半島にあるヤルタでドイツの戦後処理とソ連の対日参戦などを決めた会談。
参考著書▽歴史教科書研究会(韓国)/歴史教育研究会(日本)編▽明石書店発行『日韓歴史共通教材-日韓交流の歴史(先史から現代まで)』
ииииппппиииипппп
///////////////////////////////
次のコーナーは参考著書▽民団中央本部が在日コリアンのために作成した著書、「歴史教科書『在日コリアンの歴史』から紹介。
ииииппппиииипппп
■ 祖国の解放と韓日国交正常化
<韓日国交正常化と在日コリアン>
「帰還運動」
1959年8月、朝鮮民主主義人民共和国と日本両国の赤十字社との間で結ばれた「在日朝鮮人の帰還に関する協定(帰還協定)」によって在日コリアンが集団的に北朝鮮に渡った事業、推進する側の総連では「帰国事業」、阻止・反対運動を展開した民団では「北送事業」と呼んだ。
第一次船は同年12月14日に出港しいったん中断したが84年の第186次船までに9万3000人以上が北朝鮮に渡っている。当時、多数の在日コリアン被生活保護者(約13万人)による財政圧迫という事情が日本側にあり北朝鮮側には労働者・技術者の決定的な不足という思惑があった。船は北朝鮮が準備したが新潟までの交通費や食費は日本が負担したのは、在日コリアンを追い出したい日本と少しでも労働力がほしい北朝鮮との利害が一致した結果であった。これに日本での民族差別・就職差別から逃れたい在日コリアンの思いと社会主義への幻想が重なり組織的帰還運動につながった。
「在日本大韓民国民団」
在日本大韓民国民団は、1946年10月3日、東京・日比谷公会堂で(当時、在日本大韓民国居留民団として)結成されました。
現在、日本全国に49地方本部と309支部、および7つの傘下団体(婦人会・商工会議所・体育会・在日学徒義勇軍同志会・青年会・学生会・科学技術者協会)を置き、関連機関として信用組合と民族学校など、15団体を有しています。
民団は形成当初から、在日同胞の権益擁護と民生安定、民族教育と文化向上、祖国発展への貢献と平和統一の実現、そして国際親善を基本方針として、多くの運動・事業を展開して来ました。50年には「韓国政府が公認する唯一の韓国人団体」として公認証を与えられています。
90年代以降、在日同胞社会が本格的な三世、四世時代を迎えたなか、民団は94年の「第44回定期中央大会」で、それまでの名称―在日本大韓民国居留民団から「居留」の二文字を削除しました。在日同胞として、韓国籍を持ちながら日本で永住する意志を鮮明にしたのです。また運動形態もそれまでの「抗議・糾弾型」から「創造・共存共生型」へと転換し、つねに次の時代をみつめながら、在日同胞の在日同胞による在日同胞のための組織として今日まで活動を続けています。<光複60周年特別写真展パンフレットより>
「在日本朝鮮人総連合会」
1945年10月15日に結成された在日本朝鮮人連盟(朝連、49年9月に強制解散)系の人々が中心となり、在日本朝鮮統一民主戦線(民戦)を設立。共産党が朝鮮人党員を離党させたことをきっかけに、民戦解散の翌日である55年5月25日に在日本朝鮮人総連合会(総連)が設立され、朝鮮民主主義人民共和国の「在外公民」であるという立場と日本への内政干渉という方針を打ち出した。
その後、50年代末からの「帰還運動」を推進し、84年までに約9万3000人の「帰還」が行われた。60年代の韓日会談の進展には反対運動を展開し、韓日法的地位協定の締結後に問題となった「国籍」の書き換えについては、在日本大韓民国居留民団と対立することもあった。
現在、在日コリアンの韓国国籍取得者は増加にともない、総連への加盟者数は減少傾向にあるが、99年には世代交代と日本定住を視野に入れた「方向転換」が提唱されている。
2005年現在、中央機関(全体大会、中央委員会、中央監察委員会、中央常任委員会)、地方本部・支部・分会と、在日本朝鮮人商工連合会、在日本朝鮮青年同盟など約20の傘下団体、朝鮮新報社、朝鮮通信社など約20の事業体から構成されている。
////////////////////////////////
――筆者の胸裏――
「ヤルタ会談」の記述を読んで思った。
この1行を書いてこの原稿は明日(24日)に書き足すことで保留にした。
パソコンを閉じて京都の取材現場に向かうため外出の支度をした。
だからテレビのニュースなども見ていない。
そして昨日(5月23日)取材現場から自宅に戻ると韓国の盧武鉉前大統領の訃報を夫から聞くことになった。驚いたが韓国の政治の変遷に「どうしてこうなるのか」と冷静な判断をしていた。
1946年生まれの盧武鉉前大統領、日本植民地支配から解放されての2年後に生まれている。高校を卒業した年には1964年、韓日国交正常化の1年前だろう。
弱気を助けるという考えで司法書士の資格を取って弁護士になられた。
もうすでに朴正煕大統領政権時代だった。
まだまだ政権は不安定な時代で南北分断国家の政権の中で育ち青春を過ごされた。韓国動乱(朝鮮戦争)時は盧武鉉前大統領がまだ幼児で鮮明な記憶はなく、ある程度国家が建設された中で育った。
日本植民地時代そして解放前に生まれた人たちは解放後、韓国の建国に奔走した。片や北に分断された国は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)、片や盧武鉉前大統領が生まれて育った韓国(大韓民国)、分断国家は様々な考えや思想が生まれていった。
在日コリアンも南北分断に翻弄され1・2世は心の壁を作らざるをえなかった。
各組織で活動するものもいれば我が父のようにどこにも属さないで中立思考で生き続けた人も多くいた。
韓国は朴正煕大統領の軍が政権を握った。分断国家としての国家体制は思想弾圧もあった。
その前の李承晩大統領、学生デモで李承晩政権は倒れた。
日本植民地支配下で生まれた世代は熱き建国に燃えた。
けっして屈しない強靭な精神が培われていた。
朴正煕大統領政権、厳しい政治体制の中でも国民たちは様々に民主化を唱え暮らし少しずつだが経済発展を遂げて韓国伝統文化も守ってきた。
この時代、南北統一活動はもうすぐに統一ができると信じて関係者は活動してきたが北朝鮮の政権はさらにもっと強靭で独裁、体制は崩れなかった。
そうした政策にも理想論を掲げて統一が実現すると信じた人も多くいた。
しかしそれが今、世界が知る北朝鮮の独裁国家、なかなか体制は倒れない。国民たちは飢餓で苦しんでいるというのに倒れない。国民が活性化していないのに国家は崩壊しない。そして2002年、拉致被害者が明るみになった。あの活動はなんだったのかと思うほど北朝鮮国家の嘘偽りの皮がはがされた。
ここで果たして----。指導者たちが様々な政策が言われている。果たしてそうだろうか。一般市民の眼としてそう思う。
インターネットという最新メデイアで盧武鉉前大統領は大統領になった。
しかし大統領になってみると普通の大統領だった。よほどの強い強固な精神がないと権力社会の渦に巻き込まれてしまう韓国の家族・親族関係のしがらみ。朴正煕大統領は家族・親戚にも政治に一切関与させなかったという。韓国社会の人脈構築の不便さを知っていたのだろう。
筆者は思う。
盧武鉉前大統領は普通の凡人、一般市民から見ると北朝鮮の体制は何をしても壊れない強靭な指導者に果たして元大統領の唱える政策に懸念もあったのではないだろうか。検察捜査にも責任を感じているだろう。しかし案外、南北分断国家、双方の国が進めるものに何か。1番悩んでいたのではないのだろうかと筆者の考えるところである。
ただ筆者は韓国政府のことは何も知らない。そして書くこともできない。
このたびの訃報でまた南北分断国家に関する見えない謎を作ってしまったのではないかと思っているのは筆者だけだろうか。はたしてそうなのか。浅学非才の筆者はわからない。統一した暁に正確な答えが出るのだろう。答えは歴史が作ることになるだろう。
そんな意味で朝鮮半島を日本植民地にした日本そして大韓民国の建国を承認しなかったイギリスやアメリカ、ソ連、朝鮮半島の団結心は「3・1独立運動」で思い知らされた日本は決して団結することを許さなかった。日本の本音がここに込められているように思える。歴史には「もし」はないがしかしあえて使う。
もし「ヤルタ会談」がなければソ連の参戦はなく朝鮮半島は分断されることはなかったかもしれない。真珠湾攻撃を仕掛けて第2次世界大戦に持っていった日本、日本がした朝鮮半島の植民地支配は歴史の中で大きな誤算を残すことになった。このことを日本人が自国の歴史として知らなければならない。
【写真説明】韓国大統領府・青瓦台(チョンワデ)、2007年6月半ば、宿泊していたニュー国際ホテルの窓から曇りがちのソウルの町を風景に入れて撮影。この年はまだ盧武鉉前大統領はこの大統領府で政治の舵取りをしていた。梅雨(チャンマ)に入ってソウルの街。
2009年5月24日 22:47
ご意見・ご感想は読者の広場もしくは、下記のコメント欄へ
コメントする
なお、著作権上問題があるおそれがある内容、特定の個人・民族・法人等への誹謗中傷、またアダルト・サイトへの誘導などの書き込みがあった場合、管理人の判断で断りなく削除します。